日本の実業家、川本源司郎氏及び同氏が設立した丸源グループ各社が東京、福岡、静岡などに所有していたビル群のことである。
スナックやクラブなどが入居するソシアルビルの他にマンションも所有していた。
多くのビルには番号が与えられており、基本的には竣工年・取得年の古い順に番号がつけられている。
〜黎明期〜
川本源司郎氏は1932年3月1日に福岡県小倉市(現北九州市)にて生誕する。
地元の私立常磐高等学校を卒業後、慶應義塾大学に聴講生として入学。1年後に2年生に正式編入する予定だったが、その直前に父親から家業の呉服店「丸源」を継ぐようにと呼び戻された。
大学入学後のアルバイトで体験したビジネスの面白さに魅了され、「進学を諦める代わりに商売は自由にしていい」と言われた川本氏は、一時は家業を継いだものの、貸ビル業に転換することを決める。
実家が小倉市内の一等地に所有する木造の貸家を鉄筋コンクリート造のオフィス向けビルに建て替え、25歳の1957年に個人事業として不動産賃貸業に乗り出した。
当初は企業をテナントとするオフィスビルだったが、「オフィスビルは家主の企画力&アイデアで収益構造を変えることができない」、「事業としての面白みに欠ける」と判断した川本氏は衣料品の商売に見切りをつけ、1960年に本格的に飲食店ビルに転換した。
1961年には小倉駅前に「丸源平和会館(丸源1ビル)」が竣工する。
~地元、九州での成功~
天井を低くし階数を増やすことで賃料を抑えたことや飲食店に家具付きで貸し出す手法が受けて、事業は順調に伸びた。
小倉で成功した丸源ビルは九州最大の繁華街、福岡県中洲に進出する。
中洲での丸源ビルの知名度向上は、後の東京進出への大きな一歩となる。
~東京進出~
1972年に東京都六本木に飲食店ビル(丸源12ビル)を建て、初の東京進出を果たした。
さらに東京で飛躍するのは、オイルショックが日本経済を直撃した翌年の1974年。
まだ飲食ビルが少なかった東京都銀座の目抜き通りに10階建てのビル(丸源14ビル)を建てた。
その後もビルの建設と買収を続け、1980年までに銀座に計7棟の丸源ビルを持つようになり、700店近いクラブやバーが入居していた。
同氏はこの頃、新築したビルの屋上からご祝儀の名目で500円札をばら撒いたという逸話も残っている。
〜最盛期〜
バブルの絶頂期には、福岡、銀座、六本木のみならず、赤坂や熱海、新宿にもビルを持つようになった。
計60棟のビルを持ち、入居しているテナント数はおおよそ6000店に上ったという。丸源はネオン街の大家と呼ばれた。
また川本氏は、同時期に米国での不動産投資に注力するようになっていた。1987年にたまたま観光で訪れたハワイは深刻な不況下で、多数の不動産が廉価で売り出されていた。これを見た同氏は、約200億円の自己資金(全額が現金)を投入し、わずか3カ月間で280件の不動産を購入。さらに米西海岸のカリフォルニア州にも進出して、米国での不動産投資のスケールの大きさに魅了された。これを契機に同氏はビジネスの比重を米国に移し、一年の約半分を米国で過ごすようになる。
米国での不動産投資事業が大成功を収め、バブル崩壊を無傷で乗り切った川本氏の総資産は約1300億円に達し、内外のメディアから「日本有数の資産家」「日本一現金を持つ男」などと持て囃されるようになった。東京都渋谷区内に地上3階、地下1階建ての豪邸を所有していながら、日本滞在中は定宿のホテルニューオータニで暮らし、68年にはハワイに五十数億円の豪邸を購入。身に着けている腕時計は6000万円、愛車のロールス・ロイスは1億円、映画製作に億単位の現金を投じるなど、同氏の桁違いの金満ぶりは一般市民の度肝を抜いた。
さらにバブル崩壊で同業の不動産長者が続々と表舞台から去ったが、川本氏は乗り切った。銀行の融資を極力避け、テナントからの賃料収入を経営の基盤とする、不動産会社の経営者として、極めてオーソドックスで堅実な方法をとってきたからだという。
「バブルに乗らなかった」ことが川本氏の自慢の種であった。
〜貸ビル業からの撤退〜
こうした状況下にありながら、川本氏は90年頃から、東京・銀座でのソシアルビル賃貸事業の縮小を検討し始める。その際に、
①各グループ会社が所有する賃貸ビルは本来、投資目的で購入した
②テナントが入居していない不動産の方が、投資物件としての価値は遥かに高い
③不動産投資事業の力点をすでに米国に移している
④そもそも他人にモノを貸すこと自体、自分の性に合わない
などと考えた同氏は、10年程度かけて銀座のソシアルビルのテナントを立ち退かせる方針を固めた。
ソシアルビル賃貸事業を縮小し、不動産投資事業に立ち返ろうとした川本氏はその第一段階として、各グループ会社が所有するソシアルビルを自身の所有に切り替えることにした。
また丸源ビルの多くは1960年代から1980年代に建てられたビルであり、1981年以前の旧耐震基準によって作られたものが大半を占めるため、耐震性に不安が残る。
川本氏自身の貸しビル業への熱意の低下によりビル管理は疎かとなり、強制的なテナントの退去に加え、ビルの老朽化が目立つ様になってきた。近年では看板の金具が落下し負傷者の発生する事故や消防法違反で告訴される事例が相次ぎ、丸源ビルは急速に廃墟化を迎えた。
2014年には北九州市内の丸源ビルに対する消防法違反の刑事告発を契機に、まもなく市内のすべての丸源ビルの閉鎖・売却が行われ、丸源ビルが小倉の繁華街の象徴であった時代は終わりを迎えた。
そして六本木や赤坂、新宿のビルも全て売却され、令和を迎える頃には銀座や熱海に20棟にも満たないビルを所有するまでに縮小した。
なお近年、美術品に対して深く造詣のある川本氏は美術館といった文化的事業に意欲を見出す様になっていた。
美術館の開設のため、銀座には新たに2棟のビル(丸源54ビル, いすずビル;15ビル隣接)を取得し、開設工事を進めていた。
美術館が完成することはなかったが、いすずビルのショーケースには多くの美術品が置かれており、丸源54ビルの外壁にある「MARUGEN MUSEUM」というネオンはこの美術館構想の名残を強く感じさせるものである。
またハワイに持つ別荘には多数の美術品が放置され、景観を損なうとして近隣住民とトラブルになり、現地のニュースにも取り上げられている。
〜川本氏の収監・逝去と丸源の終焉〜
川本氏は、2013年3月5日、法人税法違反の疑いで東京地検特捜部に逮捕された。
長年にわたり、会社名や登記地を頻繁に変更したり、会社の清算と復活を繰り返したりするなどの方法で、東京国税局との間で法人税をめぐる争いを続けていたが、東京国税局は強制調査に乗り出し、脱税の証拠をつかんだとして刑事告訴した。
逮捕前にはメディアの取材に対し、「国税とは、何十年間も真正面からやってきて、全戦全勝」と豪語していた。
当初は懲役4年と罰金2億4000万円という執行猶予のない実刑判決が求刑されていたが、何度も弁護団を変えてまた0からのスタートが繰り返され、裁判が一向に進まず何年も経過していった。
初公判から8年ものの歳月が過ぎた2021年1月、最高裁にて川本氏の上告が棄却された。
この判決を持って川本氏は実刑確定となり4年の懲役が課されることとなる。それ以降消息は完全に止んでいたが、丸源ビルに変化が生じたのは2023年夏のことだった。川本氏は収監から2年半で仮釈放を受けていたのである。渋谷区の自宅に出入りする姿が多数報告され、庭の手入れをする植木職人に厳しく指示する姿まで目撃されていた。
刑務所から出所し、余生を悠々自適に過ごすかと思うも束の間、2024年2月12日に老衰にて逝去する。逝去前からいくつかのビルは売却されていたが、川本氏の死をもって全物件が3月から6月にかけ売却されている。
売却されたビルは既に看板の撤去工事が進み、銀座からは丸源の文字は消えた。残されたビルは殆どが再開発されると思われ、かつて一世を風靡した丸源ビルはオーナーの死をもって完全に消滅することとなる。